ところで、この絵は背景がほぼ一色なのでこれ以上のプロセスは画像として残していない。もう少し背景に変化を持たせても良かったかも知れない。余談だがこれも小学生のとき水彩画で風景を描く授業が有ったが、途中で青の絵の具が足りなくなって緑や紫などを混ぜてまだら模様に空を描いたらたまたま教師の目に止まり「空と言っても良く見れば青一色ではない」と皆の前で絶賛されてしまった事が有る。今さら絵の具が足りなかったとは言えなくて頭をポリポリ掻いていたのを思い出す。デジタル絵画ではもちろん絵の具が無くなる事は無いから、こういう微笑ましい事も起こり得ない。
こういう対象はデッサンが狂いやすい。
この絵で言えば左翼の付け根など見えない部分をイメージして描くのがコツだ。場合によってはその部分を想像して透かして描いてみるとうまく行く。また、左右を反転させてみると歪みに気付く事も有る。小学校の授業で版画を彫った事が有ってデッサンではバランスが良かったのに反転した版画は不自然に歪んで見えたという経験をした。気付いてなかっただけで実はデッサンの時から歪んでいたのだ。
ところで、序盤にこんな手間を掛けずとも写真をトレースしてしまえば楽なのに、なぜこんな面倒な事をするのか。言うまでもなく、それをすれば「イラスト」とは呼べないからだ。何も無い真っ白なキャンバスから始めるのが楽しいからだ。手書きにこだわって観る者を唸らせる事こそ絵描きの真骨頂というものだろう。しかし、パースの時点でトレースしても誰にも分からない筈だ。その様な邪道に走る人がいないとも限らない。だが、僕が思うに手間暇かけて作ったものには手作り独特の味が出るのだと思う。写実的でありながら写真とは違う味が有る。これはイラストに限った話ではない。民芸品にせよ料理にせよ、人間の手で、人間の技で作ったものには、手っ取り早く作られた大量生産品などには無い「何か」が有る。その「何か」が人に感動を与えるのだと思う。
何年か前ダ・ヴィンチの「受胎告知」を観る機会が有った。その絵を観た時に不思議な事に「楽しい」と感じた。題材は真面目な絵画なのに、どこからそんな感覚が湧いて来るのかと思ったが、どうやらダ・ヴィンチが楽しみながら描いたからではないかと思った。ダ・ヴィンチの楽しさが絵全体に溢れている様な気がした。近年、楽しんでない絵が多い。無理して変に芸術ぶって、描きたい絵を描いていないのが分かる。絵描きが楽しんでないのに観る人が楽しめる訳が無い。楽しまなければ執念も湧いて来ない。芸術が全てそうである様に、絵は本来楽しいのだ。自分なりに一つの作品を完成させると大きな満足感が得られ気分が晴ればれする。
イラストの制作過程の舞台裏をお見せするメイキングのミサゴ編。
メイキング編Ⅱ ミサゴ